普賢寺の建立経緯
1968年2月に日韓仏教親善交流を推進するため、日韓仏教会の招請で西翁大宗師を韓国側団長として11名が来日しました。京都の妙心寺で日韓親善法要の日程を済ませたあと、3月中旬頃に東京に赴き韓国大使館と韓国民団の方々の案内で30数名の一行が厚生省を訪問し、地下室に保管されている2329倶の遺骨を目にしました。案内人から「このような場所であっても安置されていることが救いで、日本全国のお寺や神社、炭鉱などには名簿の整理すら出来ていないまま遺骨が放置されているという」話がありました。ささやかな慰霊の法要を済ませたあと、一行はまだ故国へ帰れず日本の各地に放置されたままになっている第2次世界大戦時大韓民族犠牲者たちの遺骨を集めて慰霊塔を建立し、供養することを誓いました。
曹溪宗の宗旨をもって毎日座禅を中心に大衆布教活動のために、華厳経普賢行願品の講義と毎日の百八礼拝懺悔を励行する事により、宗教法人普溪院としての布教活動が発展しました。
その後大阪の大韓民国総領事館と大韓民国民団の方たちの協力を得て慰霊塔を建立するべく布教活動を始めました。その流れで信者の方たち数十人が集まって、毎月千円で三日間祈祷する普賢寺会を発起し、1968年5月大阪生野区猪飼野に38坪の家を借りて「在日本大韓仏教曹溪宗達磨寺」を建立する運びとなりました。
1973年8月生野区猪飼野から生野区勝山北5-12-39に敷地126坪の家屋を購入して、宗教法人曹溪宗総本山「普賢寺」としました。
管長 釋泰然
経 緯
1968年2月
日韓仏教親善交流会 日本側招請
西翁大宗師 韓国側団長として釋泰然僧任が来日
1968年5月
大阪市生野区猪飼野に「達磨寺」を建設
1972年7月
宗教法人曹溪宗「普賢院」に許可される
1973年8月
当院を生野区勝山北5丁目に移転
宗教法人「曹溪宗総本山普賢寺」に名称変更
西翁大宗師を方丈に推薦する
1975年10月
京都に「高麗寺」の敷地6万坪確保
1999年6月
宗教法人「曹溪宗総本山高麗寺」に名称変更